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2021-10-15

世界中の人に着物の楽しさを伝えたい~和裁技能士 若松 美紀さん〜

 はっきりした顔立ちに、すらりとした立ち姿。
 まるでモデルのような雰囲気の彼女は、和裁技能士の若松 美紀(わかまつ みき)さん。

 まだ暑さの残る9月に、名古屋テレビ塔近くの公園でお会いした。

「9月になったら小物類を冬用に替えるんだけど、今日30度で暑いから。でも秋っぽい着物を着たいなと思って、それでこの着物を着てきました」

 現在、自宅で和裁教室を開き、講師として活動している。

Photo by Nozomi Kitou

 普段は「肝っ玉母ちゃんですよ」と笑う彼女は、8歳、5歳、3歳の男の子の母親だ。
「一番下の息子が今朝『ママかわいい』って言ってくれて」と言って、アハハと笑う。

 

 若松さんの肩書きは「和裁技能士」だ。

和裁技能士(わさいぎのうし)とは、国家資格である技能検定制度の一種で、都道府県知事(問題作成等は中央職業能力開発協会、試験の実施等は都道府県職業能力開発協会)が実施する、和裁に関する学科及び実技試験に合格した者をいう。

(Wikipediaより引用)

 ちなみに「和裁」とは、和服(着物や浴衣など)を仕立てることをいう。

 あまり馴染みのないこの肩書きと、どこで出会い、どうして目指すことになったのか。
 最初のきっかけから今に至るまでの話を聞かせてもらった。

・「着物」に興味を持ったきっかけ

「最初に『着物っていいな』と思ったのは、大学の卒業式でした」

 母親から譲り受けた着物に、袴を合わせた。
 赤っぽい紫の地に小花柄がついた着物だった。

 その姿を見て「綺麗だな」そう思ったのが最初のきっかけだった。 

 若松さんは、着付けをしてくれた人にその場で「習いたい」と言ったという。

「多分、すごく感動したんだと思います。みんなに綺麗って言ってもらえて嬉しかったし。あと、恥ずかしくなかった。着物着るのって、恥ずかしくないですか。視線を感じたり、自分がそわそわする感じとか。それがその時はあんまりなかったんです」

 それから週に一度、会社が終わると着付けを習いに行った。
 そしてその教室の先生との出会いが、着物の世界で生きることへの最初の一歩となった。

「私、その先生がすごく好きだったんですよ。当時で70代後半のおばあちゃんだったんですけど、着付けがすごく上手だし、すごく褒めてくれる。『上手上手』『好きだから上達が早いんだねー』って。めちゃくちゃいい先生で」

 私もこの先生みたいになりたい。
 いつしかそう思うようになった。

 人生で「こうなりたい」と夢を持ったのは、これがはじめてだった。

・家で仕事がしたいという思い

 1983年、岐阜県下呂市生まれ。
 両親と4つ年下の妹との二人姉妹。
 幼い頃は、祖母と曾祖母も一緒に暮らしていた。

 元々は明るい性格だったが、引っ越しに伴う転校が多く、いつの間にかおとなしい子供になっていたという。

「最初の転校は小学1年生の時。その次が中学2年。これが一番きつかったかな。もう友達関係もできあがってるし難しいよね。自分から話しかけることもできなくて、話しかけられたら喋る感じだった」

 その次の転校は高校一年生の時。
 同じ中学校だった生徒がほとんどいなかったこともあり「心機一転で」楽しく過ごせた。

 大学は工学部の土木科に進学した。

「単純に数学が好きだったから」そして「実家から通えるから」という理由で大学を決めた。

「どうして土木科を選んだかは、あまり記憶がないです。なんでもよかった。何になりたいとか、やりたいこともなかったし」

 大学卒業後の就職先は、機械設計の会社だった。
 大学と同じく「実家から通えるところ」という理由で、自転車で10分で通える会社を選んだ。

 入社後は、そこで設計の仕事をしていたという。

「CADで設計してました。ワンフロアに100人ぐらいいるんですけど、みんな無言でカチカチカチカチ…って。多分、見たらびっくりすると思う(笑)」

 それでも「別に苦ではなかった」という若松さんだが、着付け教室で「和裁」という言葉を知ったとき「これ、家で仕事ができるんだ」そう思った。

 昔から「家で仕事がしたい」と思っていた。

「子供の頃、お母さんが仕事してたから、おばあちゃんの家から学校に通ってたんですよ」

 だからというわけではないが、自分もこの先結婚して子供が生まれたら、家でできる仕事をしておきたい。そんな思いがあった。

「和裁」なら、それを叶えることができる。

 本格的に着物の道へ進むことを決め、翌年の1月に会社を退職した。

・着物の世界への第一歩

 会社を退職後、これから進むべき道について考えた。

「着物の世界で生きていきたいけど、着付けだけではだめだろうと思って。着物に関して知識を深めないと生きていけないだろうなって」

 その時考えた選択肢は2つ。
 呉服店に就職するか、京都などに行き「染め」の勉強をするかだった。

「呉服屋さんは『また就職するのか』と思って。働いて着物を売るのか…うーんって。そこはちょっと自分の中でストップがかかって。
 京都の染めとか伊勢型紙とか、そういう風に着物に関わる仕事でもいいなって思ったけど、京都に住むのかあって。家出たくないなあって(笑)」

 その頃、ずっと着付けを一緒に習っていた女性から「私、和裁学校出てるんだ」という話を聞いた。

 そこで「和裁学校で学ぶ」という選択肢が増えた。

 ところが調べてみると、和裁学校は基本的に4年通わなければいけないことを知った。

「しかも朝から晩まで。専門学生と同じぐらいの忙しさで、4年間通わなきゃいけなくて。
 私、そのとき24歳だったの。入学する時は25になる歳だったから、4年後29かと思って。4年かあ!って」

 でも諦めきれず色々探していると、一人の和裁士のホームページを見つけた。
 全く面識のない相手だったが、問い合わせフォームから和裁学校についての質問を送った。 

 すると、その和裁士から「私が卒業した学校なら、3年で卒業できるシステムがある」と返信が来た。

「3年だったら絶対行く!って。その学校について調べて、そこに入学しました」

 その学校は、全国展開している呉服店のグループ会社でもある和裁学校だった。

 若松さんが利用したのは「職業訓練生」という制度だった。
 学生でありながら一年契約の契約社員となり、給与をもらいながら和裁について学ぶ。

 これなら3年で卒業できる。

「同じ学年に20人ぐらいいる中で、職業訓練生は1人か2人。私の学年は2人だった」

 そして25歳の春、若松さんは和裁学校の学生となった。

・がむしゃらに努力した3年間

 夢を抱いて入学したが、その毎日は思った以上に過酷だった。

「もうね、めちゃくちゃきつい(笑)」

 最初は浴衣の縫い方から教わった。

「入学してすぐは、縫い方も順番も分からないから『ここまで縫ったら呼んでね』って先生に言われて。教えられたところまで縫ったら先生を呼ぶ。また教えてもらって縫ったら呼ぶ」

 驚くべきことに、和裁教室には教科書も資料も何もないという。
 全てを口で伝えられる「口伝」だった。

「全部、見て学んで体で覚える。1年生の時にキャンパスノートの一番分厚いのを渡されて、自分でメモ取ってくださいって」

 でも過酷だったのは教えられ方ではなく、縫わなければいけない「着物の量」だった。

「月に何枚縫うっていう目標設定がされていて、それが達成できると進級ができる。進級できると縫うものが変わってくる。浴衣だったのが絹の着物が縫えるようになったり、さらに進級したら訪問着が縫えるとか」

 ところが、職業訓練生は「模範になるべき」として、一般の学生よりも1.2~3倍の目標設定がされていた。
 若松さんの目標は月に16枚ほど。
 つまり、2日に1枚仕上げなければいけなかった。

「だから、持って帰って家でも縫う。朝9時から17時まで学校で縫う。家に帰る。18時から朝の5時まで縫う。通学する。9時から17時まで縫う、帰る…(笑) それを3年やってた」

 寝る時間がほとんどなかった。

 一緒に職業訓練生で入学した同期は、1年で辞めてしまった。

 でも、若松さんはとにかく食らいついた。

「ここでしか技術を学べない」そう思い、必死で毎日縫い続けた。

 

 3年生に進級すると、さらにきつくなった。

「本来は3年生の上に技能科っていう人たちがいる。たとえばワタが入っている子供用の特殊な着物とか、1年に数回しか発注が来ないようなものをその技能科の人たちが教わる。でも私の代はたまたま技能科の人がいなくて、縫った人がそれを学べるという最高の環境だったから、来たもの全部やりたくて。抱えてるものは速攻で終わらせて『やらせてください!』って全部やらせてもらってた」

 それらの特殊な着物の縫い方を教わることで、通常の着物を縫う時間が減った。
 でも、縫う数を減らすわけにはいかなかった。

「夕方裁断して持って帰って、朝納品。学校で裁断と印付けを20分で終わらせて家に持って帰って、ぶわーって縫って朝納品」

 とにかく経験を積みたかったと話す彼女に思わず「やめようと思わなかったのか」問うと「思わなかった」とハッキリ答えた。

「3年で卒業できることが分かってたし、3年後、家で仕事ができるって分かってたし、卒業後仕事をもらえることも分かってたから」

 寝る間を惜しんで縫い続けた3年が終わった。
 若松さんは首席で卒業した。

・念願の「家で仕事をする」という暮らし

 卒業の年、和裁技能士の国家検定があった。

「規定の着物が決まっていて、みんなよーいスタートで縫うんです。学科と部分縫いと本当の着物を縫うっていう3つ。3つ全部受からないとだめ」

 それにも無事合格し「和裁技能士」となった若松さんは、和裁学校卒業後、念願だった家で仕事をするというスタイルを手に入れた。

 仕事は、和裁学校のグループ会社だった呉服店と、外注契約をした。
 卒業式に袴を借りた呉服店の仕事も、させてもらえることになった。

「あとはホームページとかブログから。私、独立する気満々だったから、すぐホームページを作ったんですよ。ブログは在学中から書き始めました」

 ブログを読んだ京都のお店からも発注が来るようになった。
 あっという間に3件をかけもちすることとなり「とりあえずは食べていけるな」という金額を稼げるようになった。

 その年の秋、大学時代から交際していた男性と結婚し、岐阜から愛知県名古屋市に引っ越した。

・子育てをきっかけに「教える」側へ

 名古屋でも呉服店を紹介してもらい、着物を縫う仕事を続けていた。
 ところが、2人目を産んだ頃から仕事が苦しくなってきた。

「子供が熱を出したりすると、納期がきつくて。もうあの頃みたいに夜通し縫えないよーって(笑) 」

 その頃、ホームページに「和裁教室はやっていないんですか?」という問い合わせが来た。

「たまたまその時に、他に教えて欲しいって言う人が1人だけいて、自宅で教えてて。『一応やってるにはやってますけど』って言ったら『1回見学に行っていいですか』って言われて。実際に見て『習いたい』って言ってくれて、その方がきっかけで和裁教室を始めました」

 自宅で和裁教室を始めたのと同時期に、呉服店でも和裁教室をすることになった。
 どちらも人が集まり大盛況となった。

「和裁教室って楽しいなって。これはどんどん良くしていきたいなと思ってた」 

Photo by Nozomi Kitou

 でも若松さんの中に「和裁技能士は縫って稼ぐものだ」という思い込みがあった。
 だから、縫う仕事をやめちゃいけない。そう思い、着物を縫うことと和裁教室の両方を続けた。

「でも、どんどん縫うのが苦しくなってきて。子供を産んで夜眠れないし、納期にも追われていて。朝も昼も夜もずっと縫ってて。自分の着物も縫えないし、全然楽しくなくて。」

 そんな時、和裁士の先輩と話す機会があった。

 若松さんが「教えるの一本でいこうかと思うんです。でも…」という悩みを伝えると、「いいじゃん。別に縫わなくてもいいんだよ」と言われた。

「縫わなくてもいい」その一言にすごく救われた。

 そして3人目を妊娠したタイミングで、縫う仕事を手放すことにした。

・人が新しいことを発見してくれる瞬間が楽しい

 そこから和裁教室に本腰を入れた。
 最初こそ人が集まらない時期もあったが、今は大盛況で数ヶ月先まで予約が埋まっているという。

 教室は週に一度、金曜日に開催されている。
 特にカリキュラムなどはなく、生徒それぞれが縫いたいものを持ってくる。

「縫いたいものを持ってきてください。場所と知識はお貸しするので、なんでも縫っていいですよって」

 着物を仕立てるもよし、お直しをするもよし、浴衣を仕立てるもよし。
 みんなが自分の縫いたいものを持ってきて、わいわいとお喋りしながら縫っている、そんな和裁教室だという。 

Photo by Nozomi Kitou

「たまに生徒さんが、全然進まない…って落ち込んだりすると、さくさくっと縫ってあげるんです。そうするとやる気が戻ったりするから。最初はどうしても手が痛くなるからねー」

 そう言って笑う様子からも、みんなで縫うことを楽しんでいる教室の雰囲気が伝わってくる。

 今は「教えている時間が楽しいし、好き」だという。
 人が何かを見つけた瞬間の顔を見るのが、とても嬉しいのだと話す。

「生徒さんが作り上げて喜んでいる姿とか、『ああ、そうやってやるんだー!』って何か発見できたときが嬉しい」

 また、和裁教室とは別で、月に一度「寸法講座」という講座も開催している。

「対象は、着付け教室の先生と、呉服屋さんの販売員さんと、あとは実際に仕立てをしてる人。あとはあつらえで寸法を自分で決めないといけないっていう仕事をしている人とか。お客さんから『ここの襟が開いてきちゃうんだけどなんでだと思う?』とか相談される人をメインにしている」

Photo by Nozomi Kitou

 

 3年通っていた和裁学校では寸法について、細かくは教えてもらわなかったという。

「でも、お客さんから寸法についての質問が来たときに分からなくて、これってプロとしてやっていくのにどうなのかなと思って」

 自分自身の着物を縫って試しながら、また寸法に詳しい先生の元についたりしながら学んだ。
 そして今はそれを人に伝えている。

「すっごくマニアックだけど」そう言ってちょっと笑った後、「お客様に着物寸法のアドバイスが出来るようになりたい、そういう人の力になりたいなって思います」そう言った。

・着物を着ることを日常に

 いまは着物を素敵に着こなしている若松さんだが、実は数年前まではほとんど着物を着ていなかったという。

「仕立てばかりで忙しくて着る時間なんてなかったし、うまく着れなかったんですよ。帯がゆるゆるになってきちゃって」

 

 若松さんが着物を着ることになったきっかけは、今から7年前。
 和裁教室の生徒さんから「この先生に一度会いに行ったら?」と一人の男性を紹介された。

「和裁の先生なんですけど、ご自身で着物屋さんもやっている方。寸法の出し方と仕立てがいいっていうのが有名で」

 東京の先生だったが、名古屋で展示会をしているのを知り、当時1歳だった長男を連れて会いに行った。

「その時は、どのくらいすごい先生なのかも知らなくて。でも教えてもらってすぐに行きました」

 そして先生に話しかけた。

「はじめまして。私、名古屋で仕立てやってるんです」

 すると先生はこう言った。

「じゃあね、やっぱり着物を着ることですよ。僕は男だから女物着れないけど、奥さんに仕立てた女物は着てもらってる。着ないと分かんないよ」

 それを聞いた若松さんは「分かりました、着ます!」そう言って帰った。

 そして数日後、またその先生の元を訪れた。
 今度は着物を着て行った。

「『先生この間はありがとうございました。言われたので着て来ました』って。よく行ったなって思うんですけど(笑)」

 先生は「色々分かるから、着た方がいいよー」と言ってくれた。

 それから先生からのアドバイスを守り、和裁教室へ着物で教えに行ったりした。

 その後、三男を出産したタイミングで、もう一度着付けを習い直した。
 帯もゆるまないようになった。

 それから日常的に着物を着られるようになった。

 最近では着物で外出すると、近所の年配の女性たちから「今日は何着てるの?」「あらいいわねえ」と声をかけられたりするという。 

Photo by Nozomi Kitou

 着物に合わせる髪型も、色々と研究した。
 シンプルにまとまっている今のスタイルも、実は努力の賜物だという。

「すっごい調べたし、インスタとかで手順をめっちゃ見ました。めっちゃ練習しました(笑) がんばりました(笑)」

 もちろん、着物を着ない日もある。

「子供の用事で出かける時は着ないです。あとは講座の時。着たり脱いだりしなきゃいけないから洋服の方が便利。あとはヒップのサイズとか測りたいし、足が曲がったところとかを見て欲しいから、ピタッとしたデニムを履いてる」 

 着物も洋服もどちらにも良さがある。
 それが分かった今は、その日の予定に合わせて洋服も着物も楽しんでいる。

Photo by Nozomi Kitou

「これからも着物は着ます。シーズンごとに1枚ずつ着物を仕立てていくのも楽しいし」

 今も次のシーズンに向けて、訪問着を作っているという。

「自分でデザインを考えて、訪問着を作ってます。経験したことないからやってみたいなって前から思ってて。今、刺繍をしてもらってます」

 仕上がってきた反物を、自分で仕立てて訪問着にする。

「出来上がるのは12月かな。真冬に着れるようにしようかなって」

 どんな訪問着ができあがるのか、今からとても楽しみだ。

・夢は「海外で和裁教室を開くこと」

 最近、新しくはじめたことがある。
 それは英語での配信だ。

 インスタグラムとFacebookグループに、英語で発信するアカウントを作った。

https://www.instagram.com/m_kimono_/
https://www.facebook.com/M-kimono-109061861490760/

(Facebookグループ M kimono)

「外国の人でも、着物を縫って着てる人がいることを知って。その国では稀かもしれないけど、インスタを見てると結構外国の人がいっぱいいる」

 アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアにスウェーデン。
 色々な国の人たちが、日本の着物を縫って着ることを楽しんでいる。

 それを知り「私が英語で和裁を伝えたい」そう思うようになった。

 しかし、若松さんには英語に対して大きなトラウマがあった。

「中学1年生から大学3年生まで、英会話教室にずっと通ってて。その集大成ってことで大学3年19歳の時にカナダのトロントに半年間、語学留学したんです」

 そこで大きな挫折を味わった。
 英語をうまく話せない自分。
 日本について質問されても答えられない自分。

「行っただけでは、なんにもならなかった」

 それから英語が嫌いになってしまった。

 読みたくないし話したくない。洋楽も聴きたくない、洋画も見たくない。
 英語を避けて暮らすようになってしまった。 

 ところが今年の7月、ふと「また英語をやろう」そう思い立った。
 あれから16年が経っていた。

「少し前から洋楽を聞くようになって、なんか喋ってみたいなと思ってインスタで喋ってみたら、フォロワーさんがめっちゃ増えて、メッセージがどんどん来て」

 話したのはこんな内容だった。

「私の名前は若松美紀です。和裁技能士です。最近また英語の勉強を始めました。実は19歳の時にカナダに留学したけど全然喋れなかったんです。でも喋れるようになりたいなと思って勉強はじめました。もし和裁のことで聞きたいことがあったらなんでも聞いてください」

 当時、一緒に留学していた友人からも連絡が来た。

「美紀の英語久々に聞いたわって。これは久々に飲みにいかないとねって、そんな話になっています(笑)」

 

 あの頃を振り返り、今思うことがある。

「英語で『何かを伝えたい』っていうのがなかったから、だから喋れなかったのかなって。
 喋れるようになりたいだけじゃ喋れないんだなって」

 今は「和裁について伝えたい」という強い気持ちがある。
 着物について、日本について、もっと伝えたい。もっと知って欲しい。

 まず第一歩として、英語でのオンライン和裁教室をはじめた。

 そして、毎年夏に開催している「1日で着物の構造が学べる」集中講座を、来年は外国人向けにやってみたい。
 それが直近の夢であり目標だ。

 その次の夢は「世界中で和裁教室を開くこと」。

「2~3日滞在して和裁教室を開いて、また違う国に行って2~3日。世界出張したいの。楽しそうじゃない?」

 そう言って笑う笑顔は、とてもきらきらとしていた。

・さいごに

 幼い頃、自分の思ったことが口に出せず、全てを飲み込む子供だった。
 友達と一緒にアイスクリームを食べているときも「それ一口ちょうだい」が言えなかった。

 学生の頃は「特にやりたいことなんてない」と思っていた。
 家から通えるからと、大学も会社も選んだ。

 でも今は好きな着物と出会い、やりたいことも夢も見つかった。

 そのために、がむしゃらに努力を続けた。

 ホームページに書かれたビジョン「着物を通じて、世界中を“楽しい”でいっぱいにする」という言葉。
 いままさに、世界に向けて一歩を踏み出したところだ。

「最初に行くならオーストラリアがいいなあ」と言う彼女に「行ったことがない」と言うと、「絶対行って欲しい!シドニーは天気が良くてめっちゃいいよ!」と教えてくれた。 

 世界中あちこちで和裁教室を開く。
 世界中いろんな場所で、着物を楽しむ人の笑顔が咲く。

「ほら。夢は、言えば叶うから!」

 そう言って笑う彼女の笑顔は、からりと晴れた9月の青空みたいに清々しく爽やかだった。

若松美紀さん和裁教室「KOTARO」  https://kotaro-kimono.org/

着物仕立て「KOTARO」 https://kotaro-kimono.com/

インスタグラム @wakamatsu_miki   
        @kotaro_kimono (和裁教室)
        @m_kimono_ (英語配信)


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