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2021-10-19

自分が自分の一番の味方でいるために 〜 Chariさん〜

 梅雨入り翌日の雨の日。
 住宅街の中に佇む小さなレストランに、「雨ですねー!」と言いながら現れたのは、Chari(チャーリー)さん。

 その笑顔から、とても快活な印象を受ける。

 現在、愛知県豊田市で、夫と長男との3人暮らし。
 セルフパートナーシップナビゲーター(SPN)を主催し、コーチとして、またフォトグラファーとして活動をしている。

 運ばれて来た料理に「美味しそう!」と声を上げ、写真を撮っている彼女に「何をしている時が楽しいのか」を尋ねるとこう答えた。

「日常的にふと思うんですよね。『生きてるって楽しい!!』って。今この瞬間も思うし。なんていうか私、めちゃくちゃコスパいいんですよ(笑)」

 幸せのコスパがいいと笑う彼女だが、実は19歳まで「幸せ」を感じたことがなかったと言う。

 一体、何が彼女を変えたのか。

 死を考えたこともある小学生時代から、生きてることを楽しいと思える今日まで、彼女が歩んだ紆余曲折の人生について、美味しいランチをいただきながら話を聞いた。

両親が笑って話しているところを見たことがなかった。

 1985年、愛知県生まれ。
 両親と姉二人の5人家族。
 三姉妹の末っ子として育った。

 末っ子はかわいがられるイメージがあると言うと、彼女は笑って言った。

「よく言われるんですよ。でも全然そんなことなくて。母からは『一番厄介な子』って思われていたと思います」

 姉二人は、母親の言うことを聞く反抗しない子だった。
 でもChariさんは、そうではなかった。

「少しやんちゃだったのかもしれない。だから私だけすごく怒られる。というか、いつも喧嘩してました」

 喧嘩をしている時の母親は、とてもヒステリックだった。
 母親からは「あんた」と呼ばれることが多かった。

 喧嘩ばかりの母親と一緒にいるのが窮屈で、同じ敷地内にあった祖父母の家にご飯を食べに行ったりしていた。

 それも母親は気に入らなかった。

「あんたはおばあちゃんの味方だもんね」「あんたが短気なのは、父親の血だ」そんな風に言われたりした。

 たった一度だったけど、「あんたなんか産まなきゃ良かった」と言われたこともあった。

「喧嘩の勢いとはいえ、ショックでしたよ」そう言って彼女は笑うが、幼い心は傷ついたことだろう。

 父親はというと「とても怖い存在だった」という。
 外では真面目な人だったが、家ではお酒を飲んで荒れることもあった。

 母親は、そんな父親の顔色を伺ってばかりだった。

「物心ついた時から、両親が笑顔で話しているのを見たことがないんです」と彼女は言う。

 思えば、家庭に安心や幸せを感じたことがなかった。
 家族から「かわいいね」と言われた記憶もない。「愛されている」という実感も一切ない。

「記憶がある時点から、もうずっと苦しかったですね」

 常に怖い存在だった父親、大嫌いだった母親。

 ずっと、家に居場所がなかった。

死を考えた小学生時代

 Chariさんにとって特に辛い記憶は、小学校3~4年生の頃のこと。

 ある日突然、友達から無視された。

「もう死にたいって思って。家にも学校にもどこにも居場所がないし、自分が死んでも誰も悲しまないだろうなって。毎日そんなことを考えながら、布団に潜って泣いてました」

 親とはそんなことを話せる関係性じゃなかったから、相談なんてできなかった。
 それに、自分がそんな目に遭ってることを知られるのが恥ずかしかった。

 その期間が一体どのぐらい続いたのか、どう終わったのか、はっきりとした時期が思い出せないという。

「あの頃の私にとって、家と学校が世界の全てだったから。つらすぎて、無意識に記憶から抹消したのかもしれません」

 そしていま、その時を振り返って思う。

「あのとき、ただ死ぬ勇気がなかっただけ。あったら死んでたと思う。勇気がなくて良かったなって今は思います」

 その後、中学、高校、大学へと進学した。

 はたから見たら順調に見えるが、彼女の中にはいつも「どうしてこの道を選んだんだろう」という思いがあった。

「中学校の時ソフトボール部に入ってたんですけど、めっちゃきつかったんですよ。初めの頃は『どうして入っちゃったんだろう』って思ってて。高校も大学も、どうしてここに入っちゃったんだろうって。とにかくいろんな事を後悔しかしてなくて」

 いつも「こんなはずじゃなかった」と後悔していた。

 そして、全ての後悔を人のせいにしていた。

 高校の選択は「先生に言われたから」。
 元々行きたかった学校から志望校を変えた。

 大学の選択も「母親に言われたから」。
 県外の大学に行きたかったのに、家から通える大学を選んだ。

 後悔を抱えたまま入学した大学は、その後通い続けることができなくなり、退学することになった。

日本の普通は「普通」じゃないと気づいた米国留学

 大学を辞めたあと、違う大学に入り直そうと予備校に通った。

 でも「何のために大学に行くんだろう」と分からなくなった時、母親から「留学してみたら?」と言われた。

「飛行機も乗ったことなかったけど、行くことに決めました」

 留学先はアメリカのサンフランシスコだった。

 窮屈だった家から物理的な距離ができたこともあり、はじめて「自由」を感じることができた。

 そしてこのアメリカ留学で、彼女の中の価値観が大きく変わることになった。

「アメリカで『日本の常識って日本だけにしか通用しないんだな』って分かって、心が解放されたんです」

 ひとつひとつは些細なことだった。

 授業中に鼻をかむ人がいること、脇毛を剃っていない女性がいること。
「いいの?!」と驚くことがいっぱいあった。

 でも「そっか、別に大丈夫なんだ」と思えた。

「日本の普通が『普通』じゃない。もっと自由でいいやって思えるようになって。たとえば、海外の人って文法とかめちゃくちゃな英語を喋る。別に間違ってててもいいんだ。とにかく喋るっていうその姿やあり方を見て、どんどん自由でいいんだって思えるようになった」

 語学以上に人生観を学ぶことができた。
 海外を好きだという自分にも気づくことができた。

「勧めてくれて、お母さんありがとうって、そこは感謝しています」

人生ではじめて「幸せだ」と思えた瞬間

 留学の中で忘れられない瞬間がある。

 それは、ある友達と遊んだ帰り道、バスに乗って坂を降りていた時だった。

「ふと、幸せだなあって思ったんです。その友達と出会えたことが、すごく幸せだなあって。今までいろんなことを後悔して人のせいにしてたけど、もしも今までの選択がひとつでも違ったら、私ここにいないかもしれないし、友達とも出会えなかったかもしれない。そう思ったら、『全部これでよかったんだ』と思えたんです」

 今この瞬間が幸せだったら、人生全てを肯定できる。

「それが私の中で、すっごい大きな気づきでした」

 語学よりも、と言って笑った。

 その日から、色々なことを人のせいにしてきた自分を反省し「自分で自分の人生や選択に責任を持とう」そう思った。

 ちなみに、今もその友達とは連絡を取り合っていて、2年前には彼女の結婚式に参列するためフランスへ行ったという。

「本当に出会えてよかったなって、思います」

 それから半年後、20歳の時に帰国した。

今日生きていられるのは奇跡なんだ。

 帰国して成人式を終えた頃、父の病気が発覚した。癌だった。

「ずっと怖い存在だったから、父のことも大っ嫌いだったんです。
 でも、最後の最後、入院している病院で私の手を握って『手が冷たいな。あっためたるわ』って。多分、意識があんまりはっきりしてなかったんですけど。そんなことは生まれて初めてで」

 父親が子供たちと話すことは、ほとんどなかった。
 夕食も一人で晩酌して食べていた。
 子供に興味も関心もないのだろう。そう思っていた。

 でも本当は、優しくしたいけどできなかっただけなのかもしれない。

「不器用な人だったんだなって、思って」

 父親は闘病の末、52歳で亡くなった。

 その時、当たり前にいた人が急にいなくなるということを目の当たりにし、「死」を初めて身近に感じた。

「人って本当に死ぬんだなって。今日生きてるのってすごい奇跡だなって思えたんですよ」

 今日まで生きて来たことも、今日、目が覚めて生きていられることも、明日があることも、全てが奇跡なんだ。
 それを強く感じた。

「父が最後にすごく大きな学びをくれたなって。大嫌いだったけど、ありがとうって思えました」

 それから「今を大事にしよう」と思い、生きることにした。

私がやりたいことは何だろう。

 そこからChariさんは、高校の時にやりたいと思っていたバリニーズマッサージを学ぶためにバリに留学したり、「まだ英語が中途半端だ」と思いオーストラリアへ留学したり、「今のままだと高卒になるから」と京都の短大に入学したりした。

「ピーターパンシンドロームだったのかな(笑)」と笑う。

 そして24歳の時、ちゃんと就職しようと地元に戻り、ジムのインストラクターとして働き始めた。

 ちょうどその頃、友人の紹介で夫と出会った。

 第一印象は「笑いのツボが合うな。仲良くなりたいな」だった。
 けど、結婚は考えられなかった。

「両親が笑って話しているるのを見たことがないし、結婚に夢とか憧れがなかったし、そもそも自分が結婚できると思ってなかったから興味もなかった。愛された記憶もないし、もし子供が生まれたとして、私に育てられるのかっていう思いもあった」

でも彼は「この人なら」と初めて思える相手だったという。

「夫は両親と仲が良さそうで。この人なら温かい家庭を知ってそう」そう思った。

 半年ほど交際し、26歳の時に結婚した。

母親が幸せになれば、子供も幸せになれる

 結婚後、長男を妊娠中に「ベビーマッサージ」の資格を取ろうと決めた。

 なぜ、ベビーマッサージだったのか。
 その理由は、Chariさんがずっと抱えていた「生きづらさ」にあった。

「ずっと昔から生きづらいと感じていて、どうやったら幸せに生きられるんだろうとか、そういうことばっかり考えてた」

 その中で、最初の留学中に「今を幸せにしていこう」と感じた気持ちは残っていた。

「今を幸せにしたい。じゃあどうしたらいいんだろう?自分の自信がないのはどうしたらいいんだろう?って考えたら『自己肯定感』という言葉にたどり着いて。それには、幼少期からの親子関係がめちゃくちゃ影響あるなって思って」

 ずっと自分のことが嫌いだったし、自信がなかった。
 でも二つだけ、自分のことを受け入れられるところがあった。

 それが「爪」と「運動神経」だった。

「それはなぜかって考えたら、母にそこだけ褒められてきたんですよね。『爪の形はいい』とか『運動神経はいいよね』って。それを思い出して、親の影響ってすごいなって。幸せに生きるためにはまず親との関係が大事だ。だから親子関係を良くするお手伝いがしたい。そう思ってベビーマッサージを選んだんです」

 出産して1ヶ月後、夫が中国へ単身赴任することになった。

 それでも勉強をはじめた。

「一人で子育てしながら。今思うとすごくきつかったです」

 スクールへ行っている間は、母親に子供を預けた。

「その頃にはだいぶ母との関係も良くなってきてて。でもその時は『どうして今なの?子供が3歳になるまでは一緒にいてあげなさい』って反対されました。それでも強行突破でやらせてもらって。そしたらだんだん応援してくれるようになりました」

 自分がやりたいことをなるべく我慢したくなかった。
「子供のせいでできなかった」と言いたくなかった。

 それは幼い頃、自分が言われてきたことだったから。

 母親はもともと、出かけたり旅行することが好きな人だった。
 でも、結婚してからそれができなくなってしまった。

 友達とお茶をして家に帰ると、義父から「どこへ行ってたんだ」と怒られたりしたという。

「そんな家だったから、母は出かけられなくなっちゃって。精神的にもだいぶ追い詰められてたと思う」

 でも母親は離婚に踏み切れなかった。
 それを娘であるChariさんのせいにしていた。
「あんたのせいで」そう言われたのが心に残っていた。

「母の気持ちが本当に分かってきたのは、自分が出産してからかな。母も大変だったんだなって。あの頃の母にも、気軽に話ができる人がいたり、心にゆとりがあったりしたらと思って」

 だからこそ「ママたちにそういう場所を作ってあげたい」そう思った。

 その後、母親の協力もあり、無事にベビーマッサージの資格を取得し、講師として働き始めた。

自分の家族を幸せにできなくなっていた

 そこから1年ほど、講師としてたくさんの生徒にも恵まれた。
 しかし、忙しくなればなるほどChariさんは追い詰められていった。

「レッスンは楽しかったけど、仕事のためにSNSを更新しなきゃって焦ったりとか、スマホを見ていて息子に『ママ』って呼ばれてるのに気づかないとか、息子が寝てから色々やりたいと思ってるのに全然寝ついてくれなくてイライラするとか。それで息子を怒っちゃってたんですよね」

 まだ夫は中国に単身赴任中。
 ひとりで家事も子育ても、ベビーマッサージのレッスンもこなしていた。

「息子は何も悪い事してないのに、ただ生きてるだけなのに怒られちゃって。それって私の都合じゃんって。それで自分をすごく責めてしまって、こんなママでごめんねって」

 そんな日々が続き、だんだん苦しくなった。

「人を幸せにしたい」「親子関係をよくしたい」そう思っていたのに、自分の家族を幸せにできていないなんて、本末転倒だ。

 そう思い、休業することに決めた。

「そしたら、息子とだけ向き合う時間がすごく増えて、すごく楽になって。今まで勝手に、いろんなものに追われてきたんだなって気づいて」

 その1ヶ月後、夫が帰任した。
 ほぼはじめての3人暮らしがはじまった。

「夫が帰ってきてから初めて気づきました。家に帰ってきてくれる人がいるっていう安心感。それまでは、もし子供に何かあったら全部自分だったから。すごく気持ちが楽になった」

 そしてもうひとつ、息子の可愛さを共有できる人がいることも嬉しかった。

「夫と息子が一緒にいるのを見ると、かわいいなって思うんです」

 嬉しそうに笑う顔は、母の顔だった。

幸せな人を増やすにはどうしたらいいんだろう

 ベビーマッサージを休業し、母親としての暮らしを楽しみながらも、どこかで「何かやりたい。でも何がやりたいか分からない」そんな思いがくすぶっていた。

「一度、本気で自分と向き合ってみよう」そう思い、コーチングを学ぶことにした。

 講座に通い、ひたすらに自分と向き合った。

 コーチングだけではなく脳科学なども学び、徐々に、自分の中に残っていた生きづらさから解放されていった。

 自分が変化することを体感して「大事なことはすごくシンプルだ」ということに気付いた。

「だから、それを人に伝えたいと思って」

 2018年、自分の経験を元に、生きづらいと思っている人が生きやすくなるための講座をはじめた。

一度どん底を見てもいい。その先に何かが見えるはずだから

 Chariさんが「幸せを感じる人を増やしたい」そう思ったきっかけのひとつは、2012年に姉から聞いたある一言だった。

「あの子は仕事もせずに、好きなことだけやって」と友人が言っていたと、そう言われた。

「友達は軽い冗談だったのかもしれないけど、結構ショックで。私はただ生きているだけで人に迷惑かける存在なんだ、やりたいことをやっているだけで、人に嫌な思いをさせちゃうんだって」

 1週間、泣いて家に引きこもった。
 そして落ち込み切った時、それが怒りに変わったという。

「散々落ち込んだら、だんだん『自分が幸せじゃないのを人のせいにしないでよ!』みたいな怒りになってきて(笑)  幸せな人はそんなこと言わないと思うし、だったら私が、心の底から幸せな人を作ろうって。私が幸せな人を増やせばいいんだ!と思って。おかげで奮起できました」

 幸せな人が増えたら、お互いに否定批判しあうこともこの世界から減るんじゃないか。悲しい事件も減るはずだ。そう思った。

 だから「心の底から幸せ!って言える人を増やす!」そう決めて活動をはじめた。

「どん底まで落ち込んでいいんですよ。怒っちゃってもいい。理不尽でもいいから、一度相手のことを怒る。怒り切る。そういう時期があってもいい。
 飽きるまで落ち込んだり怒ったりする。それを乗り越えたら見えて来るものがある。私自身だいぶしんどかったけど、この経験があって本当によかったなって思います」

 もうひとつ、夫の存在も大きかった。
 夫は、落ち込む彼女のそばに、ただいてくれた。
 それが安心感につながり、立ち直ることができたという。

「夫は私の一番の理解者で、いつも応援してくれた。どんなときも、何があっても『この人はいてくれる』という感覚を初めて感じた。この安心感があれば人は力が湧くし立ち直れる。それに気づいた時、私も夫のように自分自身と接しようと決めました」

 信じてただそばにいてくれる、そのことが力になる。
 その気づきがいまの彼女につながっている。

「もしも夫がいなかったら、今の私はいないかもしれない。本当に感謝しています」

自分が自分の一番の味方であるために

 現在、女性が幸せに生きるために「セルフパートナーシップ」を軸とした講座を開催している。

「セルフパートナーシップ」とは文字通り、自分とのパートナーシップ。
 自分を丸ごと愛すること。そして、どんなときも自分が自分の一番の味方であること。

「まずは、自分の心の声や感じてることをキャッチしてあげること。自分がいま何を感じてるか。今トイレに行きたいかどうかとか、それぐらいのレベルから、逐一キャッチしてあげる」

 最初は「自分が何を食べたいか」も分からないぐらい、感覚が麻痺している人が多いという。

 そこから一つずつ自分の心の声を拾い、ちゃんと聞いてあげる。

 そうやって自分のことを大切にすると、意識が変わって世界も変わってくるという。

「同じ場所にいても、どう見るかどう接するかで世界は変わるんです。自分への接し方が変わると、不思議と周りの人も優しくなったりする」

 そして、ベビーマッサージの講師時代に「ママと赤ちゃんを素敵に撮ってあげたい」とはじめた写真撮影も、本格的にスタートさせた。

Photo by Nozomi Kitou

「撮影があると変化が早い。セルフイメージが上がったり、自分を受け容れられたり、自分の可能性に気づけるんです」

 写真に撮られることで、自分の中で否定していた部分、コンプレックスだった部分もだんだんと愛せるようになる。

「『自分のことを大事な存在だと思えるようになった』『女性としての自分をもっと楽しみたいと思った』『私、まだいけるじゃん!』っておっしゃってもらえるとすごく嬉しい。自分の可能性にフォーカスすることで、人生って良い方に変わっていくと思うから」

 「あなたはこんなに可愛いんだよ!かっこいいんだよ!素敵なんだよ!」それを知って欲しくて気づいて欲しくて、撮影をしている。

「いつも興奮気味にシャッターを切ってます」そう言って笑う。

Photo by Chari

 今は、講座や撮影を通して人が変わっていく姿を見ることが、何よりも幸せだという。

「お客様や受講生さんが、本来の自分を取り戻して、生きることを楽しんでいく過程に立ち会えること。それこそ、自殺願望があったような人がめちゃくちゃ楽になって、日々楽しく生きられるようになったっていうのも目の当たりにしていて、本当にめちゃくちゃ嬉しい。やったね!みたいな」

 自分自身も死を考えた過去がある。
 そこから日々の幸せを感じられる今にたどり着いた。

「私が変われたんだから、望めば絶対に変われる!っていう確信があります」

 彼女の講座のモットーは「もれなく変化を実感してもらう」ということ。

 常に相手の幸せな未来にフォーカスして「どうせ大丈夫」とどっしり構えている。

「何もなくても『今、わたし、幸せ』って思えるようにしていく。みんながそう思えるようになったら、世界は平和になる。夢物語かもしれないけど、結構本気で思ってます」

 少し恥ずかしそうに、でも言い切ったその瞳はまっすぐ前を見ていた。

Photo by Shiomi Ishikawa

さいごに

 後日、Chariさんからメールが届いた。

 そこには、インタビューの際に聞いた「小学生の頃の自分に何を言ってあげたいか?」という問いに対しての答えが書かれていた。

「『生きててくれて、ありがとう。あなたのおかげで、今私は幸せだよ。あとで伏線回収するから、今はなんとか生き延びてね!!』そう言ってあげたいです」

 あの時、もう少し勇気があったら命を絶っていたかもしれない。そう話していたChariさん。

 生きるのは大変だという思いは、今も変わっていない。
 でも、だからこそ楽しい。
 そして、人生はいつか必ず終わりを迎える。

 そう考えるようになったきっかけは、少し前に健康診断でひっかかったことだった。

「その時、私が今の子どもたちに残せるものは何かって考えたんです」

 彼女が思い描いたのは、ひとりひとりが自分として生まれたことを喜び、一度限りの人生を最大限に楽しむ愛と希望に満ちた世界。

 息子には、そんな世界でのびのびと人生を楽しんで欲しい。

「だから、私が人の幸せをサポートするのは、ある意味個人的な願望でもあって。目指す世界をつくるためには、一人でも多くの人に心から幸せになってもらわないと困るんですよね」

 そのために「セルフーパートナシップ」という思想やあり方を、一人でも多くの方に届けたい。

「色々あったけど、やり切ったー!楽しかったー!って思って最期を迎えたいなと、今は思います」そう言って笑った。

 どうせいつかは死ぬのだから。
 いつか訪れるその日まで、彼女は全力でこの世界を楽しんで生きていくのだろう。

「美味しかったですね」そう言ってお店を出ると、雨は止んでいた。

 雨はいつか必ず止む。

 だったら、一度ずぶ濡れになってみるのもいいのかもしれない。

 歩き出した彼女の後ろ姿を見ながら、そんなことを思った。

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