誰かがトップになるための礎に〜加茂 昭夫さん〜
「自分が表に出たいとは思わない。裏方で支える方が楽しい」
都内にあるホテルのレストランで、サンドイッチを頬張りながら話すのは加茂 昭夫(かも あきお)さん。
バーチャルアーティストのプロデュースや、イベントの運営などを手掛けている。
肩書きは「プロデューサー」だ。
「同時にいろんなことが進行してるから」と見せてくれたスケジュール帳には、余白がないほど打ち合わせの予定が入っている。
プライベートでは、一女二男の父親。
「今年ちょうど7歳5歳3歳だったから、リアル七五三って写真撮ったの」と笑う様子から、子煩悩な父親としての顔が覗く。
大学在学中からアルバイトを転々とし、30歳で独立起業をするまでに働いた会社は8社。
様々な職種で得た全ての経験が「今に活きていると思う」と話すその職歴について、そしてこれから新しく始めたいと思っている事業について話を聞いた。
・全力でオタクだった子供の頃
1980年静岡県浜松市生まれ。
両親と父方の祖父母、そして3人の弟との8人暮らし。
4兄弟の一番上で、一番下の弟とは15歳離れている。
小学生時代の話を聞くと「普通だった」という。
「成績も中の中。運動神経も普通。全部普通。特徴がないのが特徴」
しかし、中学校に入ると人生が変わった。
幼馴染がいるからと入部した剣道部で、剣道に夢中になった。
最初は補欠だったが、中学2年生の時、はじめてレギュラーとして出場した大会でチームが優勝した。そこからずっとレギュラーとして活躍した。
「中学3年の頃が一番輝いてたと思う。めちゃくちゃモテたし(笑)」
そのモテっぷりはというと、修学旅行で加茂さんが写っている写真が売り切れるほどだったという。
でもその裏では、アニメとゲームが好きなオタク少年だった。
「最初は小学6年の時だったかな。ガンプラっていうプラモデルからガンダムを知って『かっこいいな』って。一番最初のテレビシリーズからレンタルビデオ屋で借りて、全部見返して。どんどんハマった」
また、ゲームは「ありとあらゆるゲーム機が家にあった」「親父が毎日1本ゲームソフトを買ってきてくれた」という環境で育ち、ゲーム好きになった。
家ではアニメとゲームを楽しみ、学校では部活に励む、そんな中学生時代を送った。
・天国から地獄に落とされた高校生活
楽しかった中学を卒業し、高校へ進学すると人生は一変した。
「出席番号が前と後ろの二人にいじめを受けたの。目障りだとか言われて」
最初は軽いいじめだったが、だんだんとエスカレートしていった。
殴られるのは当たり前、靴の中に画鋲を入れられたり、彫刻刀で腕を切られたこともあった。その時の傷は今も残っている。
半年が過ぎた頃、学校に行くのをやめた。
「もう死のうかなって。どうやったら死ねるだろうって、確実に死ねる方法を真剣に考えてた。飛び降りても、高さが足りないから骨折で終わるかもしれないとか、手首を切っても即死はできないからきついなとか。即死できる方法って人に殺してもらうしかないんだなって。そうすると誰かを犠牲にしなきゃいけないのかって。
そう考えて死が目の前に来たら怖さが出てくるわけ。ああ無理だって。勇気がないやつは死ねないんだなって」
担任の教師にも相談したが「いじめがあるという声は誰からも上がっていない」と言われ、取り扱ってもらえなかった。
一人だけ親身になってくれた教師がいたが、その教師の声も学校には届かず、翌年異動になってしまった。
教師も学校も信用できない。
親にも恥ずかしいから言えない。
しばらく引きこもりのような日々を過ごしたが、「このままじゃ嫌だ」という思いが頭の隅にあった。
そこから加茂さんは、本を読み漁るようになったという。
どこかに答えがあるんじゃないか。救いがあるんじゃないか。そう思っていた。
「毎日ほとんど飯も食わずに、正座をしたまま本を読んでたらしいんだよね。自分では覚えてないんだけど、母親がそう言ってた」
・ひとつの言葉に救われて、再び学校へ
一体何冊読んだのか分からない、その中の1冊に書かれた文に目が止まった。
『いじめというのはいじめる側が100%悪い。どんな状況でも100%悪い。誰が何と言おうと『いじめ』は絶対に『悪』。『どんないじめも断じて許さない!』という強い意志が、大人になければならない。それがすべての大前提です』
この言葉を読んで、ひとり泣いた。
「分かってくれる人が世の中にいるんだって。もし将来、俺がこの言葉を言えるようになったら、これは自分の経験として大切なのかもしれないなって。なんとか頑張ってみようと思って」
もう一度、学校へ行ってみようか。
そう思ったタイミングで、いじめていたうちの一人が学校を退学になった。
それから1ヶ月後、加茂さんは1年ぶりに学校へ行くことになった。
「一生行くことはないと思ってた。でも、心が変わったから勢いで行けた」
遅れていた勉強は友達が教えてくれた。
修学旅行にも行くことができた。
行き先はロンドンとパリだった。すごく楽しかった。
やっと、高校生活を楽しめるようになった。
・はじめての上京、好きだったゲームの世界へ
高校3年の夏、受験シーズンが到来した。
推薦で東京にある大学を2校受けるも、不合格。
「じゃあ受験勉強をしなきゃなんだけど、冬に『グランツーリスモ』っていうゲームが出るから『勉強なんてできるわけない』って、親に真顔で言った」
すると母親は「だったらゲームの専門学校に行ったら?」と言った。
同じ高校に通う同級生が、東京のゲーム専門学校へ行くという話を聞き、声をかけた。
「そいつもガンダムが好きだったから意気投合しちゃって。願書提出は郵送でもよかったんだけど、ちょうどビッグサイトでイベントがあったから『一緒に東京行こうよ』って二人で計画して」
4月、二人で専門学校に入学し、学校近くの寮で暮らすことになった。
はじめて親元を離れ、東京での生活がはじまった。
専門学校では、プログラミングについて学んだ。
ゲームの作り方を学びながら、自分のゲームを作ったりした。
それなりに面白かったが、1年で退学することになった。
きっかけは、ある同級生との会話だった。
「当時、広末涼子がすっごいブームだったの。それで同級生に『広末涼子ってさ』って言ったら『なんのアニメ?なんのキャラクター?』って言われて。その時ヤバいなって思ったの。オタクになるのはいいけど、こうなっちゃうのはさすがにヤバいなって」
それに、ゲームは好きだけど、自分はプレイヤーであってメイカーではない。
そこまでの覚悟はないし無理だ。そう思い、退学することにした。
・バンドのマネージャー、そしてアルバイト。
退学に伴い、専門学校の寮を出た。
ちょうどそのタイミングで、一つ年下の幼馴染が上京してくることになり、彼とルームシェアすることになった。
幼馴染は、大学に通いながらバンド活動を始めようとしていた。
「バンドやるんだったら、俺サポートするよ」そう言って、加茂さんはそのバンドのマネージャーをすることになった。
その頃から表に出るよりも、裏方として人を支える方が好きだった。
スタジオの予約をしたり、ライブハウスとのやりとりをしたり、裏方としてバンドメンバーを支えた。
定期的にライブを開催し、デモテープを作ってはレコード会社に送ったりした。
それなりにファンもついて、ライブには30人50人と客が入っていたという。
加茂さんは、マネージャーとしてバンドの活動を支えつつ、近所のケーキ屋でアルバイトをしながら、さらに学生をしていた。
実は高校卒業時、父親に「大学の通信教育だけは受けろ」と言われ、専門学校に通いながらも時々授業を受けていた。
「普段は家で勉強して、夏休みの間だけ大学に行って授業受けるっていう。そういうところに通ってた」
そんなある日、先輩から「新聞屋がバイト募集してるから、働いてみないか」と声をかけられた。
それは、新聞紙面のレイアウト編集をするという仕事だった。
「2000年当時、まだパソコンで紙面編集する会社は一社もなかったの。それ専用の『LDT』っていう機械があって。それを使って紙面を編集するオペレーターっていう仕事をやってた」
LDT(Layout Display Terminal(レイアウト・ディスプレー・ターミナル ))という、新聞紙面を作るためにある特殊な機械を使い、紙面を編集するというアルバイトをはじめた。
加茂さんは1面から6面、そして10面を担当していたという。
「1面とか2面は、その日起きたことが翌日の新聞に載る。夜の11時までに記事が上がらないと印刷が間に合わないから、10時過ぎるとすっごいピリピリする。それが楽しかった」
ここで働いたことで、効率良く仕事をするということが身についた。
限られた時間の中で、どうしたら早く、またクオリティの高い仕事ができるのか。それを常に考えていたという。
ここで2年働き、22歳の時に辞めることにした。
「大学4年の年になって、同級生たちは新卒で社会人になっていくじゃん。同じフィールドに立ちたいと思ったから。いつまでもバイトでいたくないし、大学はちゃんと行ってないけど、4年生になったら就職活動してして社会人になろうって決めてたから」
就職活動の末、ドラマの制作会社に就職が決まった。
・はじめての正社員。でも続かずさらに転々と。
ドラマ制作会社と言っても、実際にドラマを作るわけではなかった。
「たとえば『HERO』の時にキムタクが着てたダウン。あれは誰が売り込みに行くのかっていう話で」
ドラマの中で、有名な俳優が着用するとそれが広告になる。
そのため、スポンサーになっている会社の商品から、何を主人公に着させるのか、使わせるのかを考えて手配する。そういう会社だった。
「俺はスポーツメーカーのスポンサーが担当だったから、そこのシューズ持ってドラマの現場に行く。『サイズ確認に来ました』って主人公に履いてもらって、OKだったらメーカーに連絡して…っていうのをやってた」
徹夜などもあって大変だったが、面白いこともたくさんあった。
でも、結局5ヶ月で退職した。
その後、「かわいい女の子と働きたい」という理由でコーヒーショップで働いた。
レジ打ちをしながら「一度営業をやってみたい」と思い立ち、5ヶ月で退職。OA機器の会社に営業として就職した。
「与えられたタスクをこなす自信はついたから、自分から仕事を取りに行くっていうことをやってみたいなって」
はじめての営業職にも関わらず、入社して一番最初に営業成果を上げたとして「ファーストオーダー賞」という賞を受賞した。
その後も順調に売り上げを伸ばしたが、結局8ヶ月で退職。
「今やりたいことをやる」そんな生き方をしていたが「そろそろちゃんと働きたい」と思うようになり、仕事を探していると、父親の知り合いが会社を興すから来ないかと声をかけられた。
「何をやるのか聞いたら『環境コンサルタント』って。会社の立ち上げから携われるって面白そうだなと思ったから入ることにした」
業務内容は、自治体に対して「石油火力に頼らず発電するために、その地域にどんな資源があってどんなエネルギーが作れるかを調査し、その導入を提案営業する」というものだった。
色々な自治体に行って、市長や上役たちと話をする。
その時に見せる提案資料を作るのも加茂さんの仕事だった。
「資料を作るのが得意だったの。多分新聞の紙面を作った経験が活きてたと思うんだけど。自治体によってどういう表紙にするかとか、すごく考えて。市長がいま何が好きなのかをリサーチしたりとか」
全国あちこちの自治体を飛び回った。それが楽しかった。
そこで3年ほど働いたが、会社が倒産してしまい退職となった。
・年に600個のイベントを仕切り、経験を積んだ
その後、ハローワークで見かけたイベント会社に応募した。
「前の会社で、自治体がやっているイベントのお手伝いに行ったりして、イベントって面白そうだなって思ったのがきっかけかな」
会社の周年パーティーや、展示会のブース、結婚パーティーなどさまざまなイベントを請け負っている会社だった。
加茂さんの担当は、化粧品の販促イベントだった。
駅前やショッピングモールなどで開催される、化粧品のキャンペーンイベントを仕切っていた。
その現場の数は、年間約600箇所だったという。
「全国各地で1日に5現場とか。そこに行く人や物を手配してた。出張が多くて年間200日ぐらい家に帰ってなかった。でもここでイベントのイロハを学んだ」
同時進行でいろんな現場が進んでいく。
それらを管理することで、タスク処理能力がついた。
そこでも3年ほど働き、30歳を迎える年に退職した。
「30になったら独立起業するつもりだったから。そろそろ落ち着かなきゃなって」
2010年の9月。
予定通り30歳で開業届を出し、イベント運営会社として「株式会社AKコミュニケーションズ」をスタートさせた。
・起業して半年後、思わぬ事態に
起業したものの、コネも何もなかった。
「前の会社と同業だったから、クライアントを持ってくることはできなかったし、完全に仕事がゼロで。まずは地元の商工会に入って。そこのイベントだったり、ゆるキャラのPRをやったりしてた」
地道な活動の甲斐もあり、少しずつだったが仕事が入り出した。
ところがその時、東日本大震災が起きた。
全てのイベントは中止になり、仕事がなくなった。
「毎日暇で…漫画読んでたかな(笑)」
やることもなく時間があるからと、地元の選挙の手伝いに行った。
そこで、ウグイス嬢をしている女性に一目惚れした。
半年ほど交際してプロポーズした。
まだ仕事は軌道に乗っていなかったが、それを言い訳にしたくなかった。
少しずつ世の中が動き出し、広告代理店の知り合いから「イベントの話があるから相談に乗って欲しい」と連絡が来た。
そして、その代理店の社長から『うちの専属でイベンターとしてやらないか』と誘われた。
「その会社にイベントを取り仕切れる人がいなかったの。だから、イベントの時だけ手伝うような形で専属契約をしようと。俺としては会社の名前を借りて営業もさせてもらうっていう」
代理店を通して、少しずつイベントの仕事が入ってきた。
そして翌年、とある外国大使館から「日本との国交樹立50周年イベント」の依頼が飛び込んできた。
「俺が基本フロントに立って、外務省と大使館と会場の担当者と話を進めて。皇族の方も来賓の中にいたから、とにかくめっちゃ大変だった。皇宮警察とも話をして。『踊る大捜査線』に出てくるような会議室で警備計画を説明したりして(笑) すごく貴重な経験だったし、すごく力がついた」
その仕事で弾みをつけ、さまざまなイベントを手がけていった。
会社の周年パーティーやフェア、展示会は数え切れないほどやったという。
そしてその年の夏、無事に結婚式も挙げた。
人生が大きく回り始めた。
・人との縁をつなぎ、どんどんと大きな仕事を
加茂さんが専属契約をしている代理店に「株式会社Alice」という会社から仕事の問い合わせが来た。
イベントの運営をしてくれる会社を探している、とのことだった。
「そのイベントにイベントプランナーとして入って。無事に終わったタイミングで、その会社から誘われたの」
当時まだ立ち上げたばかりで、社員も数名しかいない小さな会社だった。
「とにかく何も経験がないから、イベントやプロモーションの案件をサポートして欲しい」そう言われ、加茂さんは取締役として会社に入ることになった。
しばらくした頃、Aliceから「もっと仕事を取りに行くために展示会を出したい。全面協力して欲しい」と言われた。
「どれぐらい集客したいのかって聞いて。1,000枚名刺が集めたいっていうから、よし分かった、1,000枚集められるようなブースにするから任せろって」
今まで数え切れないほどやってきた展示会の経験を活かし、約束通り1,000枚以上の名刺を集めた。
そして2回目の展示会で、大きな仕事のきっかけが訪れた。
・バーチャルアイドルのプロデューサーとして
2017年5月、展示会をきっかけにNTTDocomoから新しいプロジェクトの依頼を受けた。
「ドコモと中国のチャイナモバイルっていう会社が、共同で新しい事業をやるっていうので、どういうイベントにしたらいいのかっていう相談というか依頼が来た」
これから5Gがはじまるという時期で、その「超光速通信」をどう表すか。他の通信会社との差別化はどうしたらいいかという話の中、上がったのが「バーチャルアイドル」だった。
「ドコモとしては、IP(知的財産)ビジネスとしてVTuberを作りたいと。それで、バーチャルキャラクターを作って番組を生配信することになった」
その企画は「生放送アニメ 直感アルゴリズム」としてスタートし、現在第3シーズンを迎えている。
当初はライブやゲームショウなどのイベント時だけのサポートだったが、今はキャラクター作りや楽曲制作、SNSやグッズの制作などの全てを、プロデューサーという立場で取り仕切っている。
「楽曲を作るだけでも、どういう曲のコンセプトにするのかって、サウンドクリエイターとかと打ち合わせをしなきゃいけない。配信はどのタイミングなのか撮影はいつなのか、スタジオは空いてるのか、お弁当は…もう全部やらなきゃいけないから。
最初は週に1本公開してたけど、さすがに労力がかかりすぎるから今は隔週。それでもずっと毎日打ち合わせの連続(笑)」
それでも「イベント会社で、年間600現場やってた時に比べたら、全然ラク」と笑う。
そして、それらの忙しさを越え、無事に配信ができた瞬間が嬉しいし楽しいという。
「苦労もあるけど、形になって世に出たなっていう瞬間が、毎回嬉しい。ああよかったって。それにお客さんが喜んでくれてコメントとかついたら、もう満足」
加茂さんがプロデューサーとして動く中で「一番大変なことは?」と尋ねると「みんなの機嫌を取ることかな」という。
「上からの無茶振りと、現場の愚痴とに挟まって『まあねえ、分かる分かる』って言いながらやるんですよ(笑)」
まるで中間管理職だよ、そう言って笑った。
・今までの経験を使って、人を輝かせたい
18歳でアルバイトを始めてから20年と少し。様々な仕事に携わって経験を積んできた。
それらの経験を使って、個人事業主に対して「プロデューサー」として力を貸したい。そんな風に最近思うようになった。
「いろんな経験とか知識があるから、それを個人の人にも落とし込んであげたい。最初はまずなんでも相談して欲しいなと思って」
そんな思いではじめるのが「とりあえず何でも相談」というサービスだ。
きっかけは、数年前に仕事で知り合った一人の個人事業主だった。
「その人は、受注も営業も全部自分一人でやっていて、それでも業績を伸ばしていて。でも傲慢になることもなく、自分の道を着実に進んでる。それを見て、自分は大きな企業の案件を抱えて、つい小さいことを見逃しがちだし、仕事が忙しいからって、仕事以外を蔑ろにしがちだなって、襟を正すような気持ちになった」
そして、個人で仕事をしているからこその限界や悩みがあることを知った。
一人で孤軍奮闘している姿に「自分が力になれたら」そう思ったという。
そこから個人事業主の人に会う機会も増え、みんなが小さいことで悩んでいることを知った。
「WEB制作ってどうしたらいいんだろうとか、それこそイベントやりたいけど何からやったらいいんだろうとか。自分は大体のことはできると思うから、なんでも聞くよって」
ゆくゆくは二人三脚で一つのことを成し遂げられるよう、プロデューサーとしてサポートしたいと思っている。
「二人三脚でゴールしたあとに、すごーい!って思いたい。誰かがトップになるための礎になることが楽しいから」
昔からずっと、表に立つよりも裏方が好きだった。
「下でずっと支えて、誰かが輝くために舞台を作るのが俺は好き。自分で何かを産んで作り上げていくのは苦手な人間だし、向いてない。何がやりたいかというビジョンを持ってる人の脇役として、その人を支えたり、そこにある付加価値をどう活かすか考える方が得意だと思う」
ここから今まで得た経験と知識を注ぎ込んで、新しい道に進んでいく。
「今までの経験は全て無駄じゃなかったと思うから」
そう言い切った声はとても力強かった。
・さいごに
後日、インタビューで足りなかった話を、オンラインで聞かせてもらった。
画面に映し出された自宅の仕事部屋には入れ替わり立ち替わり、三人の子供たちが現れた。
「こんばんは」「だれー?」と加茂さんの膝に乗って画面を覗き込む息子さんたち。
「もういいから!早く行きなさい!」と言いながら笑う加茂さん。
最後に娘さんが「おやすみ」と言って、加茂さんとハグをして部屋を出ていった。
「毎日ね、ハグしてからじゃないと寝ないの」
娘がかわいくて仕方ないパパの姿がそこにあった。
そんな加茂家に最近、家族が増えたという。
ポメラニアンと豆柴のミックス「ひめ」ちゃんだ。
「犬なんて全然興味なかったけど、めちゃくちゃかわいくて。もうメロメロ。インスタまで始めちゃったよ(笑)」
3人の子供たちに小さなわんこ。
賑やかで楽しい家族の様子が垣間見えて、こちらも思わず笑顔になった。
20代の頃、「今やりたいことをやるだけ」と転職を繰り返してきた。
今はもう「転職欲は全然なくなった」という。
これからは、自分のためではなく誰かを輝かせるために、二人三脚で多くの人たちをゴールに導いていく。
時に優しく時に厳しく、でもその人を信じて加茂さんはゴールテープを目指すのだろう。
そしてテープを切った時「すごーい!」そう言って、一緒に喜んでくれるはずだ。
ますます忙しくなりながらも、それさえ面白がって進んでいくであろう加茂さんの「プロデューサー」としての活躍が、今からとても楽しみだ。
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