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2021-06-29

世界はいつでも自分次第〜大橋美里さん〜

 由比ヶ浜の海が見えた瞬間、「あー海だー!」と言って少し早歩きになる。背中の真ん中まであるストレートの黒髪がさらさらと揺れる。

「海って、ちょっとテンション上がりますよね」そう言って眩しそうに笑うのは、「Millie(ミリー)」こと大橋美里(おおはし みさと)さん。

 現在は東京都内で、一つ年上の夫と暮らしている。

 幼い頃アメリカに暮らしていた帰国子女で、一流大学卒業。
 大手メーカーで会社員として働きながら、人間関係に悩める女性たちを救うコンサルタントとして活躍中。

 人も羨む華々しい経歴の持ち主だが、つい数年前までは「人生の闇の中」にいたという。

「私はもう人生の底を見たと思う。だからこれからは楽しいことしかないって思ってる。人生、右肩上がり!」

 キラキラと輝く海を背に笑う 彼女の39年間に、一体何があったのか。

 遭遇した幾つもの壁、それらを乗り越えたからこそ今感じることを聞いた。

・英語が話せないままアメリカの小学校へ

 1981年10月 東京生まれ。

 両親と4歳年下の妹との4人家族。
 幼い頃は「大きくなったら、パパと結婚するー!」と言うほどのパパっ子だった。 

 大橋さんの最初の人生の転機は、保育園の年長クラスの時に訪れた。
 父親の仕事の都合で、アメリカのカリフォルニアに越すことになったのだ。

 英語をまったく話せないまま、現地の小学一年生のクラスに編入することになった。

 事前に母親から教えられた英語はたった二言。

「たしか学校に行く初日に、ふたつだけ。嫌なことをされたら『やめて』っていう『Don’t do that.』。あと『Thank you.』。それだけで放り込まれたの(笑)」

 入学してしばらくは、みんなが何を言っているのかが全く分からなかった。泣きながら帰ったこともあった。

 ある日、母親に「もうどうしたらいいか分からない」そう泣きついたところ、母が買って与えてくれたのは「アメリカ人の子供用の辞書」だった。

「まさかの英英辞典。もう本当に絶望した」

 子供向けでイラストがたくさん描かれている辞書だった。「Apple」の横にはりんごの絵「Lion」の横にはライオンの絵。

 でも、その辞書の一番最初に書かれていた文字に、大橋さんは絶望した。

「英英辞典の一番最初って、冠詞の『a』なの。もうそこで絶望。イラストがない。文字だけしかない。でもこの『a』が大事そうだってことは子供にも分かるの。そのときの絶望をすごい覚えてる。『ここを乗り越えないとアップルにも行けない』っていう(笑)」

 そんな母のスパルタの甲斐もあったのか、彼女の元々の才能だったのか、通常は1年かかる英語初級クラスを、半年で卒業した。

 そしてもう一つ、文化の違いにも苦労した。

 大橋さんが暮らした西海岸というのは、とてもオープンな地域だった。

「見知らぬ人同士でも、すれ違うときに目を合わせて笑顔をつくる」そんなマナーというか礼儀のようなものがあった。

「それは『危害を与えるつもりがない』っていうアピールなんだけど、学校の子供同士でもそうだったりするの。でも私はその文化を知らない。キョキョロしていると誰かと目が合う。そうすると相手はニコっとしてくれるんだけど、私は『え?』って思って目をそらしちゃう。恥ずかしくて。でもそうすると失礼な子になっちゃうのね」

 結果、イジメというほど陰湿なものではないが、ちょっとしたいたずら(立っている間に椅子を引かれるとか)を受けたりした。

「現地の学校だったけど日本人が多い地域だったから、その子達がフォローしてくれた。基本はその子たちと遊んでいたかな」

 そんな当時のことを「大変だったけど、楽しかった」と笑う。

 アメリカの暮らしは、それから3年半続いた。

・帰国後「前へならえ」が理解できなかった

 小学校4年生になるタイミングで、日本に戻ることになった。

「戻りたくなかった。私と母は戻りたくなくて、父と妹は戻りたかったんじゃないかな。多分だけど」

 アメリカで常識を作り上げてからの日本の暮らしは、なかなかに大変だった。

 上履きを無視して土足で入ったり、お菓子を持って行ったり、授業中に突然「トイレに行っていいですか」と言ったり、周りに驚かれたり指摘されることも多かった。

 逆に大橋さんが驚くことも多かった。

「びっくりしたのが、体育の授業とかでやる「前へならえ」。アメリカではああいうのないから。最初びっくりしたよ『みんなキョンシーになったの?!』って(笑)」

 どうして、前にならわないといけないのか。
 大橋さんにはその様子がとても不思議な光景に見えた。

 日本独特の「みんなで仲良く」「空気を読む」というものがまったく分からなかった。

「だって、超個人主義的なところで育って来てるから(笑)」

 中でも大橋さんが一番嫌だったこと、それは「給食当番」だった。

 アメリカでは自分でランチを持っていくか、カフェテリアで食べるのが当たり前だった。だから理解ができなかった。

「なんで私が、みんなにご飯よそってあげなきゃいけないの?って(笑)」

 そして言葉の面でも、最初は苦戦した。

 とっさに日本語が出ず、言葉に詰まる。細かいニュアンスが伝えられない。

「ひとつだけ覚えてるのは、5年生の時にスタイルの良い子に向かって『体格がいいね』って言っちゃったのね。彼女は私のことを分かってくれてたから『体格かあ~』って笑ってくれたし、他の子から『スタイルがいいねって言うんだよ』って教えてもらったんだけど」

 そんな失敗を積み重ね、少しずつ日本人マインドに馴染んでいった。
 こういうことをすると変な風に見られるんだな。そんなことが分かるまでに約2年かかった。

「子供の頃の学校って閉鎖的で。世界が家と学校しかないっていうのもあるからかなあ。日本の学校はプレッシャーだったし、嫌だったりしたかなあ」

 家と学校しかない子供時代。

 大橋さんは、その「家」にも大きな問題を抱えていた。

・ずっと両親の喧嘩を聞いて耐えていた

 その後、中学高校を卒業し、国際基督教大学に進学。
 卒業後は国内大手メーカーに総合職として就職した。

 学生時代は何をしていたか、という問いに「家が最優先だったから、友達とは遊べなかったなあ」と答えた。

「母が夕飯までには絶対帰って来てって。それが決まりだったから」

 7時。それが門限だった。
 だから、学生時代は友達とも彼氏とも、夕食を食べに行ったことがないという。

「6時には解散。じゃないと間に合わないから」

 もしも遅れると、母親からヒステリックに怒られたり無視されたりした。

 日本に帰国した頃から、両親の喧嘩が絶えなかった。
 朝から喧嘩がはじまることも多かったし、週末は毎週のことだった。

「母がいつも一方的に怒ってる。わんわん叫んだり、物を投げたり、自分が作った料理を床に落としたり。それがいつも食卓ではじまる」

 喧嘩がはじまると、大橋さんはその場から動けなくなったという。

「もしも私が動いたら、もっと大変なことになる」そう思っていた。

 だから、何も起こらないようにただただ祈りながら、母の怒鳴り声を聞いていた。

 もちろん彼女にも反抗期はあった。でもその感情を表には出せなかった。

「もしも私が、今以上の負荷を母に与えたら、家が崩壊すると思ってた」

 何よりも、妹の存在が大きかったという。
 妹がかわいそう。妹だけは守りたい。その気持ちが強かった。

「妹は喧嘩が始まったら自分の部屋にこもるタイプだった。私はそれでいいと思ってた。部屋にこもるなり外に遊びにいくなり、とにかくここにいなくていい。そう思ってた」

 だから、ひとりでじっと耐えた。

 父はいわゆる「企業戦士」だった。
 毎晩帰りが遅く、休日はゴルフなどで家にいないことも多かった。

「多分母はもっと父と話をしたかったんだと思う。夕飯だって本当は父と食べたかった。そういう理想の家族像みたいなものがあったけど、それができなくて、期待が全部娘に行ってしまったんだと思う」

 受験シーズンにはそのプレッシャーも重なり、母の大声を聞くとお腹を壊すようになってしまった。

「ちょっと考えて」そう伝えると、その時期は喧嘩がおさまった。

 でも、受験が終わるとまたはじまった。

「喧嘩をすることが娘にどんな影響を与えてるか、なぜ考えられなかったんだろうって思うけど、多分、母も精神的に相当不安定だったんだと思う」

 その頃、夜中に母親が一人で笑っていたこともあったという。

「離婚して欲しい」と母に頼んだこともあった。
 でも両親は離婚せず、喧嘩を聞くだけの日々は続いた。

 小学4年生の少女が23歳になるまで、そんな日々は続いた。

・包丁を持って家族の前に立った日

 大橋さんの精神が限界を迎えたのは、ある日曜日の朝だった。

 いつものように食卓で両親が喧嘩をはじめた。

 その瞬間、頭の中の何かがプツリと切れた。

 無言で立ち上がり、ふらふらと台所へ行き、包丁を手に取った。

 異変に気付いた両親が走って来て、彼女を取り押さえた。

「私もそんなに力が入ってなかったから、すぐに包丁は取り上げられて。そのままその場に倒れちゃって、夕方まで眠り続けた。多分もう限界だったんだと思う」

 目が覚めると、両親と妹が3人で「ごめんね」と言いながら泣いていた。

「なんかもうね、両親のこととかどうでもよくなってて。『このひとたち』っていう感じだった。妹にだけ、かわいそうな思いさせてごめんねって謝って。この子が一番かわいそうだな、何も悪くないのに謝ってるなって思って。わたし、妹だけは守ってあげたかったから。そこだけすごく申し訳ないなって思ってた」

 翌日、母親に連れられて心療内科へ行った。会社は休んだ。

 医師に向かって「もう、わたし、頑張れないです」とわんわん泣いた。1時間近く喋り続けた。今まで10年以上蓋をしていた思いが、溢れて止まらなかった。

 診断名は「うつ病」だった。

「先生が『もう頑張らなくていいからね。少しずつ元気になればいいからね』って言ってくれて。またぶわーって泣いて」

 そこから治療がはじまった。

・うつ病とのたたかい

 うつ病の治療は、投薬とカウンセリングの2種類だった。

 投薬は「抗うつ剤」と「精神安定剤」、そしてどうしても辛いときに飲む「頓服薬」があったという。

「私は薬を飲むのがすごく嫌いで、服用は最低限にしてもらってた。特に『頓服』は、飲んだら眠くなって寝ちゃって強制終了で。全然気分が晴れなかったから『これだけは嫌だ』って飲まないことになった。でもそうすると、すごい落ち込みが来ても耐えなきゃいけないから、それも辛いんだけどね」

 カウンセリングに行っても、最初の2回はほとんど喋らなかった。喋る気もしなかった。

 3回目の時、カウンセリングの先生に「今まで誰にも話してない話を、初対面の人に突然するっていうのが、よく分からないです」と言った。

 すると、先生は少し驚いた顔で「そうよねえ」と言った。

「若い女性の先生だったんだけど、それを聞いたときに『この先生ならいいかもしれない』って思ったの」

 その日をきっかけに、少しずつ先生と打ち解けた。

「楽しみとは少し違うけど、また会いたい。そう思える先生に出会えたことが幸運だった」と彼女は言う。

 半年ほど経ったとき、彼女は先生に聞いた。

「このカウンセリングって、どのタイミングでどうやって終わるの?」と。

 すると先生は答えた。

「不思議なんだけど、みんな分かるのよね。私がお話ししてきた人はみんなある時『先生、わたし大丈夫だと思います』って言って、それで卒業というかカウンセリングを終わられるの」

 まだ病気の真っ只中にいた大橋さんには想像はできなかった。
 ただ、「へえー」と思った。

 そこからは、気持ちの落ち込みとのたたかいだった。

「人によるかもしれないけど、私の場合はしばらくはずっと低空飛行。何も楽しくない。お笑い見ても面白くない。誰といても誰と話しても楽しくない。そもそも話したくない。
 そのあと、少しずつ良くなって来ると気分が上向く。でもまた落ち込む。それを繰り返す。この落ち込む時が本当にキツい」

 何度も何度も「元気になるかも」「駄目だった」「元気になるかも」「駄目だった」を繰り返しながら治っていく。
 この「駄目だった」が、最初の低空飛行よりもずっと辛かった。

「この下向きのときが本当にキツい。『また駄目だった』って落ち込む。でも、先生からそうなるって聞いてたから、しょうがないんだって受け止めてた」

・先生、わたし大丈夫だと思います。

 治療を続けて3年後、とうとうその日はやってきた。

「先生、わたし大丈夫だと思います」そう先生に伝えた。

 先生も「私もそんな気がしてた」そう言った。

 その日をもって、うつ病とのたたかいが終わった。

「私は運が良かったと思う。もっと引きずる人もいるし、悪化しちゃう人とかもいる。私は3年で抜けられて超ラッキーパターンだと思ってる」

 その後、「無理しないで休んでいいから」そう言って待ってくれていた職場に戻り、営業として働き始めた。

 復帰してしばらくしたあと、営業先の会社で夫と出会った。

 結婚を前提に交際を始め、1年で結婚した。
 29歳の時だった。

「上司に『お前は、何を営業しに行ったんだっけ?』って言われちゃった(笑)」

 うつ病も治り、結婚もして新しい家庭を築いた。

 あとは幸せになるだけ、のはずだった。

・あの頃の母と同じ「怒ってばかり」の妻になっていた

 子供の頃からずっと「家」が第一優先だった。

「母親との共依存だったんだと思う」そう話す。

 うつ病は3年で完治したが、依存体質は変わっていなかった。

 家の問題が解決した結果、今度は「夫」に依存するようになってしまっていた。

「いつも夫に対して怒ってた。なんでこの人やってくれないの?私が思ってるようにやってくれないの?私はこんなに我慢してるのに。そう思ってた」

 仕事で疲れて家事ができない日。それを夫に謝ると「いいんだよ、大丈夫だよ」と言ってくれる。

 なのに「私がやらなきゃいけない」と思っていた。

「良い妻になるには家事を完璧にしなければいけない」そう思い込んで、できない自分を責め、そして「夫はやってくれない」と怒っていた。

 ちょうど結婚した頃から、夫の仕事が忙しくなり帰りが遅くなった。
 それが拍車をかけた。

 家には重い空気が流れていた。会話は減り、話をしてもすぐに喧嘩になる。

「今思えば、話せない状況を私が作っていた。何か言ったら怒られる、夫の中でそういう図式が出来上がってしまってたと思う」

 ふと、昔の母親と同じようになっている自分に気付いた。

「離婚」という文字も頭をよぎった。

 このままじゃだめだ。そう思い、パートナーシップについて学び始めた。

 本を読み漁り、最後に3ヶ月の講座を受けることにした。

 結婚して8年も経った頃のことだった。

・「旦那さんがかわいそう」と言われて

 2回目の講座の日、講師に夫のことを相談をした。

「夫が何もしてくれない。私はこんなに頑張ってるのに」

 うまくいかないのは全て「夫のせい」そう思っていた。
 いつでも自分が被害者だった。

 だから、きっと同情してもらえると思った。
「そうだったんだ、つらかったねー」そう言ってもらえると思った。

 だけど、講師の口から出た言葉は、彼女の予想とは違うものだった。

「旦那さんがかわいそう」

 どうして?なぜ?私がかわいそうでしょ?旦那さんがかわいそう?どうして?

 ものすごくショックだった。

 でもその時、大きな何かが壊れた気がした。

「夫がかわいそうなんて考えたこともなかった。かわいそうなのはいつだって私だと思ってた。でも言われてみたら私、全部夫のせいにしてたなって。夫に、私の機嫌を取ってもらおうとしてたんだなって。彼にしてみたら、要求ばかりされて、それが気に入らなかったらふてくされて、ダメ出しばかりしてきて、いつも不機嫌で…そんな奥さん嫌だよなって。夫がかわいそうだなって」

 講座で3ヶ月学び、自分と向き合い「自分のご機嫌は自分で取る」ことの大切さを知り、「自分」というものを取り戻していった。

Photo by Nozomi Kitou

「そこからずっと実践。講座の3ヶ月だけで変わるわけない。40年近くこじらせて生きてきてるんだから。だから、自分を洗脳するかのようにずっと続けて、いまここまで来てる」

 仕事で疲れて家事ができない時「ごめん、無理」と言うと、夫は「いいんだよ、大丈夫」そう言ってくれる。

「夫はさ、何も変わってないんだよね」

 今は「やれる方がやればいい」そういうルールになっている。

 主に食事は夫が作り、掃除や洗濯は大橋さんがする。

「私がやらなきゃいけない」と思うこともないし「どうしてやってくれないの!」と怒ることもない。

Photo by Yayoi Higashiyama

 

 夫だけでなく、他の人に不満を持つことも少なくなった。

「人に変に期待してひとりでイライラすることがなくなった」という。

「すごく変わったと思う、本当に。昔の自分を思い出すと本当にイタい。先生に『つらかったんだね』って言ってもらいたかったとか、その発想がなんて貧しいんだろうって思う。ああ恥ずかしい!(笑) でも、たった3年前だよ。人っていくらでも変われるんだよ」

 毎日家で怒っていたあの頃とは全然違う。

「いま、うちの中、笑いしかないです(笑)」

 そう笑う彼女の笑顔に、全ての答えがある気がした。

Photo by Nozomi Kitou

・何をすることが私にとっての「喜び」だろう?

 その講座を受講したことで、もうひとつ大きな変化があった。それは「働き方」だ。

 講師やその周りの人たちが「個人事業主」と知り、この世には「会社員ではない働き方」があることを肌で感じた。

「会社員という働き方しか知らなかったから。すごくびっくりしたし、世界が一気に広がった」

 当時、会社での仕事に閉塞感を感じていた。
 8年間異動がなく、ずっと同じ仕事をしていることがストレスだった。

「会社を辞めるほどの勇気はない。でも、一体いつまでこの部署にいるのかも分からない。それがすごくしんどかった」

 今年も異動がないと知った2020年の夏、会社の制度が変わり「副業」が解禁された。

 早速会社に申請を出した。申請内容は「翻訳」だった。

「最初『自分にできることはなんだろう』と考えて、得意な英語を生かそうと思って、翻訳を選んだの」

 翻訳について学び始めてすぐ「ちょっと違うかもしれない」と思った。

「世界は広がるかもしれない。でも私、翻訳がすごく好きかって言われたら、うーん…みたいな。ワクワクはしないし、喜びかって言われるとそうではないかなって」

 じゃあ私は何がしたいんだろう?何をしていることが喜びだろう?そう考えた時に、ひとつの答えにたどり着いた。

「私はこの3年でめちゃくちゃ変わって、人生がすっごい楽になった。パートナーシップだけじゃなくて、その他の人間関係もそれ以外のことも。でも周りには、ちょっと生きづらそうな女の子たちがたくさんいる。簡単なことでずっと悩んでる。みんなすごくいい子たちなのに」

 楽しく生きるようになってから、会社の後輩から相談を受けることが増えていた。
 彼女たちから「相談したいです」と言われることが嬉しかった。

「こういうことを仕事にした方が、喜びを感じられるんじゃないか」そう思い、「過去の自分のように、悩んでいる人を助ける」ことを仕事にすることにした。

 会社への申請を「翻訳」から「コンサルタント」に変更した。

・過去の自分のような女性を助けたい。

 コンサルタントとして活動しはじめてまだ数ヶ月だが、すでに多くの女性が彼女の元を訪れている。

「私のところに来てくれる人はみんな、ちょっとこじらせてる。いろんなことをしちゃいけない、できないと思い込んでいたり、大したことじゃないことを崖から落ちたかのように捉えてたりする。全然そんなことないんだよ、こう考えればいいんだよって伝えてる」

 相談に来る人の多くは、恋愛で悩んでいるという。

「でもその根底にはマインドの問題がある。人目を気にしてるとか、自信がないとか。恋愛以前のものがあるから、恋愛もうまくいかない。過去の私もそうだった」

Photo by Nozomi Kitou

 少し前にコンサルティングを受けた女性からこんなLINEが届いた。

『私、ミリーちゃんとお話ししてから、自分がすごく変わったと思ってて。長くなりそうだからメールしますね』

 それを読んだ時、嬉しさのあまり鳥肌が立った。

「すごく嬉しかった。私との関わりで変わったって思ってくれたことがすごく嬉しい」

 でも、と続ける。

「本当は、コンサルの申し込みが一件も来なくなるのが、一番良いのかもしれないよね」

 この世から、悩む人が一人もいなくなればいい。
 みんなが自分で自分を生きられたら、それが幸せ。それが一番。そう思っている。

「世界はいつでも自分次第」彼女のブログにいつも書かれている言葉だ。

 世界は敵じゃない。自分次第でいつだって変えることができる。

「悩んでる子たちに言いたい。早くそこから出てこっちにおいで!本当に楽だから!私はもうそっち側に行けないよ!しんどくて!(笑)」

・さいごに

 昔、母親に「離婚して欲しい」と言ったとき、母親は「ごめんね。でも私、パパのこと好きなんだよね」と言った。

 あのときは意味が分からなかった。でも今は分かる。
 きっとパパのことを大好きだから、期待をしてしまっていた。
 でもそれを裏切られていると思い込んで、勝手に傷ついて怒っていたんだろう。

 母もつらかったのかもしれない。

 現在、両親は「そこそこ平和にやってるみたい」と笑う。

 いろんなことを乗り越えた。
 だから「今、毎日がただただ楽しいんです」そう言えることが嬉しい。

「両親の悩みもなくなって、夫とうまくいかない悩みもなくなって、こじらせも卒業できた。他の人の顔色を伺ったりせずに、自分がしたいことや、自分が大事にしたいことに集中できる。この毎日が幸せで本当に楽しいの」

 この笑顔の後ろには、長く暗いトンネルがあった。

「みんなそれぞれ人生の中できつい時期ってあると思う。人生の底がどの程度かって人によると思うんだけど、でも、私は多分、人生の底を見たと思う。だから、残りの人生はご褒美だと思ってる」

 おどけた様子で「私、ずっと深海生物だったから。浮上したのここ2~3年だよ?」と笑う。

 大橋さんは今年40歳。まだ40歳。
 残りの人生には一体どんなご褒美が待っているのだろう。
 きっときっと、たくさんのご褒美が彼女を待っているはずだ。

 たくさんの愛や笑顔や感謝に溢れた未来が、そこにはあるはずだ。

「海っていいなあ」そう呟く後ろ姿を見ながら、そんな未来を思った。

 海がより一層輝いた気がした。


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